寝台の思い出-紀伊-

今朝の銀河到着の様子です。日曜の朝と言う事でここ数日のうち最
混雑です。規制ロープも張られてました。最終日はコレを上回るかと
思います。
銀河
▲日曜としては今日が最終日です
1970年代後半からブルトレブーム等という言葉がありました・・・
ヘッポコ工場長はブルトレブームにはまった一人です。今から25年
程前の1983年12月に、まもなく終了するという「寝台特急 紀伊」
に乗車してきました。
と言っても、今の様な情報社会ではなく、当時「鉄道ファン」を買って
も今と違い事後事象ばかり扱っていて、まぁそれ以前に活字は読ま
ず、写真を眺めるだけ(^^;
「レイルマガジン」のように、さりげなく予告特集を組んでくれる様な雑
誌は無論皆無、当時の趣味誌は子供には難しすぎました。
「レイルマガジン」の創刊号を書店で見掛けた時は強烈な印象でした。
そんな中幸い、ヘッポコにはお父さんが国鉄に勤めているという同級
生がいて、その同級生からの情報が唯一でした。
テールマークの左側にうっすらと「出雲」のテールマークが写りこんで
いるのは、貫通状態の7,8号車間貫通扉部分でテールマークの写真
を撮っていたら「それぢゃ暗いし撮りにくいだろう?」と、車掌さんがわ
ざわざ貫通扉閉めて、電気まで点けてくれました。これも良い時代で
した!
紀伊
▲子供には優しい国鉄でした!
紀伊は出雲に名古屋まで併結して走る寝台特急で、分割の関係から
14系を使用し、出雲にはA寝台と食堂車を連結して1~7号車が出雲、
オールB寝台で8~14号車までが紀伊という豪華14両編成で東京駅
を発着してました。
ただ、食堂車でヘッポコ定番の「カツカレー」を食べた記憶がないので
もしかしたら営業していなかったかもしれません・・・記憶違いかな?
名古屋駅に到着すると出雲にぶら下がっていた紀伊を切り離し、出雲
の方はすぐ発車していきました。
無人で貫通扉の開けっ放しなどお構いなく、今なら「危ないから下がっ
て!」とか注意されそうです。
分割
▲廃止間近でしたが名古屋駅での撮影者は少なかったです
紀勢本線が非電化のため、この先はDD51が牽引機となります。出
雲が発車して行くと、早速DD51が反対側から入換運転でやってきて
紀伊と連結して発車となります。
連結
▲ガキの写真ですみません・・・今もたいして変わりませんが
当時のカメラはトプコンの「TOPCON uni」という一眼レフで、レンズ
も50ミリと135ミリの単焦点レンズだけ。車内を撮る事は不可能どこ
ろか、AF等は無縁なため、真っ暗闇ではピントすら合わせることも出
来ず、ストロボの露出もマニュアルなため、2~3枚撮って1枚写って
るかどうかという感じでした(-_-;
乗車した車両はオハネ14 47でこの車両は1996年に廃車となっ
てます・・・
1447
名古屋を出てからも深夜を突っ走り、夜の関西本線と紀勢本線は外
が見えるわけもなく、寝付ける訳もなく・・・と言う事で、朝になるまで車
内をチョロチョロして、紀伊勝浦駅に到着です。外へ出るとえらく寒か
ったのを覚えてます。
紀伊先頭
方向幕
▲この頃寝台車は結構ピカピカに見えました
降車終了後、「寝台特急 紀伊」は引き上げていきました。
最後部
今から25年前、露出もピントもマニュアルで失敗ばかり。しかも、D-Tr
ainさんと同じ様にフィルムは子供にとっては高価で、旅行では36枚撮
りを2本持ち歩くのが精一杯です。
このあとは、紀伊半島を一周して帰宅となりました。
「寝台特急 紀伊」はこの1ヶ月後、1984年1月いっぱいで廃止になり
ました。
お見苦しい写真にお付き合いありがとうございました。