自由が丘検車区跡

自由が丘留置線

現在大井町線の自由が丘には留置線が1線だけあります。ちょっと前までは3線ありましたが、現在は寂しい1線です。大井町線の都内側で夜間帯駅留置以外だと定常留置となっているのは自由が丘だけです。遮断機の位置が線路よりかなり後退していますがかつては工場と検車区がありました。

ポイントは模型再現泣かせの次世代タイプと言われるものが設置されています。枕木は短枕木、電気転てつ機も模型ではないタイプです。

以前にも写真を出してますが、かつての検車区時代を彷彿させる配線が残っていました。この時点では4線ですが、中型車6両編成時代のため2線しか実質使用できませんでした。

もう少し前の時代になると5線分留置線がありました。この時代は4両編成であったため全ての留置線が使用できました。かつては8500系が止まっている左側に検車庫がありました。

検車区の面影

上の写真で8500系の脇にあった検車庫の箇所は、東急関連のレンタカー会社になっていいて、このようにコンクリートピットをそのまま埋めた跡が残っていました。

もっと線路側へ行くとこのようにコンクリートのタタキと、レール、ガードレールが見えていました。

車庫跡地

1線を残した車庫跡地の現在は、トレインチという商業施設になっています。トレインのお家という造語だそうです。

碑文谷工場

碑文谷工場にいる営団3000系

碑文谷工場は、書籍などでも紹介されているので写真としては珍しくもありませんが、開通前の日比谷線が碑文谷工に集結している状況です。「地下鉄はどこから入れたんでしょうね。夜も眠れなくなります。」という春日三休照代の漫才も懐かしい感じです。
開通直前にココから中目黒の線路を振って地下に入れたのも知られた話しになっています。

現在この場所は、碑文谷保線基地とゴルフ練習場になっていて、3000系のいる辺りがゴルフ練習場です。

▲伊藤忠興氏撮影.

上の写真撮影位置現在は、写真真ん中に写っているエキスンドメタルの門扉の辺りです。

工場は昭和39年から始まった連続立体交差事業(駒沢通り、補助26号線)の資材置き場として活用、工場機能も元住吉工場の一部に集約されることとなり昭和41年に移転しました。写真右側が工場建屋のあった場所で、現在は東急のスイング碑文谷というゴルフ練習場になっています。
連続立体交差事業がおわると工務部の資材置き場とゴルフ練習場になり、工務部側では玉電廃止で不要となって保管してあった桁の転用工事作業場になりました。その後、昭和57年に新丸子付近の立体交差工事が始まると、新丸子保線基地の代替地となり、保線基地とはいえ再び線路が敷かれることになり現在に至ります。

日本全国の車両が出入りしたこの場所を、50年後に本線が西武、東武と直通するとは想像出来なかったと思います。

車庫拡張-その8-

砕石撒き

殺風景だった留置線部分に砕石を撒き始めました。電路柱の基礎部分は砕石が入り込まないように養生します。

砕石撒き

砕石はいつも通りKATOのB74を使用します。

モジュールの両端部分にはプラスタークロスで地面の下地を作ります。砕石は手持ち分だけだと足りなさそうなので、買いに行きます。

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