東急2020系2145F出場【J-TREC横浜】

2020系2145F出場

田園都市線用の2020系が今回も珍しく横浜のJ-TRECから出場となったため、いつもの逗子へ向かいますが、今回はちょっと時間をずらして色々と他の場所を見て回ります。

牽引機【DE10 1662号機】

今回の牽引機は2144Fの時も牽引したDE10 1662号機でした。牽引機は新鶴見から来て、大船駅で12時12分から22分まで停車しています。

京浜東北線ホームの10番線でしばらく停車しています。

12時17分発の横須賀線逗子行きが発車したあと、22分に牽引機が出発します。

連絡線を単機で下っていきます。

2145F出場

いつもの山の根踏切へ向かいます。先月の2144F出場時は規制線がありませんでしたが、今回はホーム先端は立入禁止になっていました。ネタ系の出場時トラブルがあったのかはわかりませんが、撮影時には十分気をつけたいものです。
左側の社員さんは帽子に赤蛇腹がある女性助役さんのようです。

増結編成の入換運転をやり過ごしたあと定位置で待ち構えます。

10両はやはり長いです。停止現示になり踏切手前で一旦停止します。

信号区間に入るためトークバックで打ち合わせの後、逗子構内への最初の入換標識71Lに進行が現示されました。

今回も途中は動画で撮っため通過時の写真はありません。

動画はコチラをどうぞ。途中バランスが崩れて見苦しくなっています。

いつもながら駅前の金沢新道踏切は長時間遮断のため、接続する道路は大渋滞しています。

いつもの場所で出発時間まで待機します。E235系と比べると東急の電車は全幅が狭いのがわかります。

3番線には頻繁に折り返し列車が入ってくるので、ディテール観察をしているとこの先のスケジュールに間に合わなくなってしまいます。今回は細かいディテール観察はせず、切り離しポイントだけ押さえて先を急ぎます。

25本目の2020系です。

パンタグラフは振動で上がることがないように、縛られています。

分割点その1。

分割点その2。折り返しの湘南新宿ラインが程なく入線し、一番前まで行って写真を撮るのは時間切れになってしまいました。

一路長津田へ【新杉田駅通過】

10両の長大編成はいつもの大船駅で見送っても画角に入りきらないため、後追いで直線の新杉田駅へ向かいます。下りの根岸線は14時12分発で、甲種輸送は14時14分通過のため、下りが遅れない限り被りません。

逗子駅では反対側だった部分が見えます。黄色い物が見えました。

このまま根岸線の線路を通っていけば、横浜線直通列車のように長津田駅へ何ら問題なく行けるのですが、分割の都合上武蔵野南線の貨物線経由で一旦八王子駅へ向かいます。

10本弱居る8500系も残りがわずかとなってきました。

踊り子号乗車

踊り子に乗車

湯河原駅観察

先日所用があり湯河原まで行ってきました。あんまり降りた事無かったのですが、両側に副本線のある駅です。

安全側線のようにも見えますが、枕木で先が封鎖されていて、専用線でも続いていたのでしょうか。バスの時間が迫り、先を急いでいたので駅舎の写真は撮れませんでした。駅舎の写真を撮っているのもこの時期ちょっと気が引けます。

熱海駅から踊り子号乗車

所用が終わり、帰路は東海バスで熱海駅へむかいます。211系見たの久しぶりです。これまた時間ギリギリで反対線に乗車する踊り子が入線してきました。

普通列車で帰ってもよかったのですが、いい具合に踊り子号があったので予約しました。絵文字がでてます。

ベッドマークにも申し訳ない感じで踊り子の絵が書かれています。

車内は観光客がそこそこ乗車しています。大船駅まで3駅40分ほどの乗車です。

途中眠ってしまいましったが、相模貨物駅で動車のDE11がいました。

緊急事態宣言が延長され、旅行は更にお預けです。

こどもの国線廃線跡-後編-

こどもの国線廃線跡

こどもの国線開通前夜

朝鮮戦争の終戦と共に放置されていた弾薬庫は、昭和40年5月皇太子殿下(現在の上皇陛下)ご成婚記念事業の一環で第二工場側は児童遊園施設『こどもの国』として開園しました。
一方、入園者輸送に弾薬庫線は当然脚光を浴びますが、電化を含めた事業認可がなかなか下りず、ディーゼルカーによる運転も検討されたこともあったようです。各種の条件付きでようやく認可が下り昭和42年4月28日こどもの国線として開通しました。昭和44年、第一工場側は廃止となった玉電が集められ、列車ホテルを建設する予定でしたが、認可が降りず玉電は解体され荒れ地となってしまいました。

第一工場分岐点

前回の続きで第一工場(牧場口臨時駐車場、旧東谷積込場)への分岐点は、長津田第5踏切の起点方でこの場所には運送屋さんが建っています。建物の裏手には自前で掘り起こしたレールが置いてありました。

駐車場には部分的に枕木がみえていましたが、現在はアスファルト舗装が被されています。

もう一つの分岐点(昭和木材線)

長津田1号踏切を過ぎた先にもう1箇所、分岐点がありました。終戦が激化する昭和18年弾薬装填関連の軍需工場が設置され、そこへ物資搬出入のため引込線が敷かれました。10年ほど前までは家族の広場として解放されていましたが、現在は「ウォルトンズコート長津田」という大きなマンションが建っています。

▲右に防音壁がある場所から線路が分岐していました.

ココがその分岐点です。奥がこどもの国方面で分岐した先には脱線転てつ器も見えます。脱線転てつ器は昭和60年頃まで残っていました。戦中は、弾薬を運ぶ木箱や防湿紙、防湿筒を製造する工場で、戦後は昭和木材工業として稼働していました。防湿紙はココの工場のほか、長津田1号踏切を越えた先の集落でも家内工業的に紙に油を塗る作業等が行われ、この工場へ運ばれていたそうです。

▲左側にポイントリバーが見えます.ポイントは側線方向へ開通したまま土が固まっています.

現在もこの場所は若干山側に敷地が広がっていて当時を彷彿させます。

大きな軍需工場は沢山の家族が暮らす平和なマンションになりました。

書籍では紹介されていない側線とは少し大げさでしたが、エリエイのレイル102号に昭和木材線の写真が当サイトとほぼ同時期の似た画角の物が掲載されています。

長津田工場の設置

長津田工場は手狭になった元住吉工場の移転先として、線路はこどもの国協会、車両と運営業務は東急と認可上ちょっとやっかいな場所に候補があがりました。長津田2号踏切脇の土地に電車の検査工場を作ることになったのは、こどもの国線が開通して数年経ってからの話しです。
恩田川沿いには田畑が広がるものの本線と地盤高に高低差があり、開通後間もなく市街化調整区域に指定されたため、県道を越えた先に落ち着きました。ココは東電高圧線が横切っているため工場の建設には制約がありましたが、逆に高圧受電をするにはコストを抑えることが出来ました。

▲当時から交通量の多かった県道川崎町田線.踏切先の右側一帯が後の長津田工場になります.

堀之内橋りょう

以前は恩田川橋りょうを越えるとすぐに小さな橋りょう、堀之内橋りょうがありました。ココは恩田川の旧河道で、弾薬庫線を建設する際に蛇行していた恩田川の改修工事も平行して施工され恩田川は現在の直線的な流路となりました。この橋りょうは県道川崎町田線のバイパス工事に伴い撤去されて、現在この場所はボックスカルバートになっています。
堀之内とはココの田んぼ一帯の字名です。

陸軍の境界石

こどもの国線沿線には未だに「陸軍」と掘られた境界石が複数存在しています。こどもの国線が軍事路線であった象徴ですが、いまは「こどもの国」という平和の象徴とも言える路線に生まれ変わったのはちょっと皮肉な感じもします。

コレにてこどもの国線廃線跡の話しは終わりとします。