こどもの国線廃線跡-前編-

子供の日に出す予定がボリュームが多くなりすぎ1週間遅れとなってしまいました。

こどもの国線工場分岐廃線跡

こどもの国線とは

昭和のはじめ、当時の鶴川村から奈良村一帯の丘陵地に、旧日本陸軍の兵器補給廠田奈部隊装薬所として田奈弾薬庫が建設されました。こどもの国線はその弾薬(主に高射砲)運搬用として敷かれた線路で、昭和9年頃から測量工事等を行い、昭和11~13年にかけて大陸方面(中国や朝鮮半島)からの強制労働者達の手によって単線(途中交換施設有り)、非電化の路線として完成しました。
太平洋戦争中は弾薬庫としては最前線の稼働をしており、戦争末期は関東地区で使用する本土決戦用弾薬のほとんどがこの弾薬庫にありました。この付近の地形は谷戸が入り組んだ山深い工場であったため敵国に攻撃されることはありませんでした。工場は第一工場(現在の牧場口臨時駐車場、旧東谷積込場)と第二工場(現こどもの国、旧西谷積込場)の2箇所があり長津田5号踏切付近からそれぞれの工場へ分岐していました。そのほかにも軍需工場へ行く線路が途中から分岐していて、コチラはあまり知られおらず、後編でご紹介します。

交換設備跡


長津田4号踏切付近に見られる廃線跡は、第一工場への分岐点ではなく交換設備分岐点の跡地です。トワイライトゾーンなどで分岐点と載せられているので勘違いが先行してしまっているようです。

▲昭和62年頃撮影.

現在は踏切部分のレールは撤去されてしまっているようですが、線路側のレールは通勤線化工事で撤去されずよく残った物だと思います。

30kgレールが踏切部分にも顔を出しています.

奈良川第1橋りょうの箇所にも桁が残ったままになっています。

I型桁による橋りょうでこの先奈良川を渡る手前で一旦本線に合流します。

▲このような配線になっていました.Googleマップに加筆.

交換設備は真ん中付近にアシュピットと事務所がありました。ココの畑の地主さんは子供の頃、兵隊さん握り飯を持って行くお使いをよく頼まれたそうです。

▲この付近は柵もなく電車が止まることもなく容易に線路に近づけました.昭和62年頃撮影.

交換設備を過ぎると奈良川手前で再び本線に合流し、奈良川第2橋りょうを渡ったところで第一工場へ分岐していきます。

分岐箇所は運送屋さんが建っていますが、手前の駐車場にはレールが顔を覗かせていました。

県道を渡ると再び奈良川を渡ります。この県道にも昭和50年頃まで踏切が残っていました。

奈良川の改修工事により現在は見ることが出来なくなりましたが、奈良川を越える場所には橋台が残っていました。