こどもの国線廃線跡-後編-

こどもの国線廃線跡

こどもの国線開通前夜

朝鮮戦争の終戦と共に放置されていた弾薬庫は、昭和40年5月皇太子殿下(現在の上皇陛下)ご成婚記念事業の一環で第二工場側は児童遊園施設『こどもの国』として開園しました。
一方、入園者輸送に弾薬庫線は当然脚光を浴びますが、電化を含めた事業認可がなかなか下りず、ディーゼルカーによる運転も検討されたこともあったようです。各種の条件付きでようやく認可が下り昭和42年4月28日こどもの国線として開通しました。昭和44年、第一工場側は廃止となった玉電が集められ、列車ホテルを建設する予定でしたが、認可が降りず玉電は解体され荒れ地となってしまいました。

第一工場分岐点

前回の続きで第一工場(牧場口臨時駐車場、旧東谷積込場)への分岐点は、長津田第5踏切の起点方でこの場所には運送屋さんが建っています。建物の裏手には自前で掘り起こしたレールが置いてありました。

駐車場には部分的に枕木がみえていましたが、現在はアスファルト舗装が被されています。

もう一つの分岐点(昭和木材線)

長津田1号踏切を過ぎた先にもう1箇所、分岐点がありました。終戦が激化する昭和18年弾薬装填関連の軍需工場が設置され、そこへ物資搬出入のため引込線が敷かれました。10年ほど前までは家族の広場として解放されていましたが、現在は「ウォルトンズコート長津田」という大きなマンションが建っています。

▲右に防音壁がある場所から線路が分岐していました.

ココがその分岐点です。奥がこどもの国方面で分岐した先には脱線転てつ器も見えます。脱線転てつ器は昭和60年頃まで残っていました。戦中は、弾薬を運ぶ木箱や防湿紙、防湿筒を製造する工場で、戦後は昭和木材工業として稼働していました。防湿紙はココの工場のほか、長津田1号踏切を越えた先の集落でも家内工業的に紙に油を塗る作業等が行われ、この工場へ運ばれていたそうです。

▲左側にポイントリバーが見えます.ポイントは側線方向へ開通したまま土が固まっています.

現在もこの場所は若干山側に敷地が広がっていて当時を彷彿させます。

大きな軍需工場は沢山の家族が暮らす平和なマンションになりました。

書籍では紹介されていない側線とは少し大げさでしたが、エリエイのレイル102号に昭和木材線の写真が当サイトとほぼ同時期の似た画角の物が掲載されています。

長津田工場の設置

長津田工場は手狭になった元住吉工場の移転先として、線路はこどもの国協会、車両と運営業務は東急と認可上ちょっとやっかいな場所に候補があがりました。長津田2号踏切脇の土地に電車の検査工場を作ることになったのは、こどもの国線が開通して数年経ってからの話しです。
恩田川沿いには田畑が広がるものの本線と地盤高に高低差があり、開通後間もなく市街化調整区域に指定されたため、県道を越えた先に落ち着きました。ココは東電高圧線が横切っているため工場の建設には制約がありましたが、逆に高圧受電をするにはコストを抑えることが出来ました。

▲当時から交通量の多かった県道川崎町田線.踏切先の右側一帯が後の長津田工場になります.

堀之内橋りょう

以前は恩田川橋りょうを越えるとすぐに小さな橋りょう、堀之内橋りょうがありました。ココは恩田川の旧河道で、弾薬庫線を建設する際に蛇行していた恩田川の改修工事も平行して施工され恩田川は現在の直線的な流路となりました。この橋りょうは県道川崎町田線のバイパス工事に伴い撤去されて、現在この場所はボックスカルバートになっています。
堀之内とはココの田んぼ一帯の字名です。

陸軍の境界石

こどもの国線沿線には未だに「陸軍」と掘られた境界石が複数存在しています。こどもの国線が軍事路線であった象徴ですが、いまは「こどもの国」という平和の象徴とも言える路線に生まれ変わったのはちょっと皮肉な感じもします。

コレにてこどもの国線廃線跡の話しは終わりとします。