碑文谷工場

碑文谷工場にいる営団3000系

碑文谷工場は、書籍などでも紹介されているので写真としては珍しくもありませんが、開通前の日比谷線が碑文谷工に集結している状況です。「地下鉄はどこから入れたんでしょうね。夜も眠れなくなります。」という春日三休照代の漫才も懐かしい感じです。
開通直前にココから中目黒の線路を振って地下に入れたのも知られた話しになっています。

現在この場所は、碑文谷保線基地とゴルフ練習場になっていて、3000系のいる辺りがゴルフ練習場です。

▲伊藤忠興氏撮影.

上の写真撮影位置現在は、写真真ん中に写っているエキスンドメタルの門扉の辺りです。

工場の詳細についてはコチラの書籍で解説されていますのでご覧ください。

工場は昭和39年から始まった連続立体交差事業(駒沢通り、補助26号線)の資材置き場として活用、工場機能も元住吉工場の一部に集約されることとなり昭和41年に移転しました。写真右側が工場建屋のあった場所で、現在は東急のスイング碑文谷というゴルフ練習場になっています。
連続立体交差事業がおわると工務部の資材置き場とゴルフ練習場になり、工務部側では玉電廃止で不要となって保管してあった桁の転用工事作業場になりました。その後、昭和57年に新丸子付近の立体交差工事が始まると、新丸子保線基地の代替地となり、保線基地とはいえ再び線路が敷かれることになり現在に至ります。

日本全国の車両が出入りしたこの場所を、50年後に本線が西武、東武と直通するとは想像出来なかったと思います。

東急にも貨車があった

ト3050

東急の無蓋貨車

緊急事態宣下やまん防のため出かけられず、連休中に整理した写真をチラチラと出していきます。

東急の貨車と言っても大東急時代を含めれば小田急、相鉄辺りの貨車も入ってしまいますが、昭和30年代後半に居た貨車についてです。

ト3050形

大正13年に10t積無蓋緩急貨車フト1形として4両登場。多摩川で採取した川砂利輸送の目的で製作されましたが、後に川砂利の採取が禁止になり砂利は露天の陸掘となってしまいました。後年保守用の砕石輸送用となってしまいましたが、砕石輸送はモーターカー+ダンプトロでの形態になり、昭和45年頃から休車状態になり昭和51年までに廃車になりました。

▲ト3050形,3053.伊藤忠興氏撮影.

ト3070形

 大正14年に10t積無蓋緩急貨車フト40形として製造された車両で、東急の同じ無蓋車ト3050や3060より軸距が長いのが特徴でした。コチラも多摩川の川砂利輸送等の目的で製造されています。後年は保守用の砕石輸送に活躍しましたが、コチラも昭和51年までに全て廃車になりました。ト3081~3084は伊豆急行建設工事に使用するため貸し出され、そのうち3081、3082はそのまま伊豆急に譲渡され昭和49年まで活躍しました。
編成はデキ3021+ト5両程度+デワ3041がほぼ定位です。デハ3450形の両運車を使用することもたまにあったようですが、終電~初電までに編成替えを行う必要があるため、だいたいデキとデワのあんこでした。

▲ト3070形、3076.関田克孝氏撮影.

煽り戸を外され、長物車代用として運用された車両もありました。

▲伊藤忠興氏撮影.

端梁の構造がよくわかる写真です。煽り戸がなくなってしまったので、連結器の解放テコが撤去されています。。

レール輸送用にも鉄道貨車がありチ3091+チキ3095+チ3092の編成で25mレールを輸送していました。コチラも昭和40年台後半頃からモーターカーに置き換えられチキも昭和51年頃には廃車になりました。レール輸送についてもう少しふれると、昭和50年代後半までは当時の国鉄のチキが新丸子基地まで深夜に乗り入れて、製鉄所からの新品レールを輸送していました。長津田からの東急線内は,モーターカーの牽引ではなく、運転速度の高い鉄道車両が使用されていました。

新丸子ト3070
▲新丸子の砂利積み込み線.左側のホームに砂利が沢山ストックされています.

田園調布の街並み

田園調布の街並み

田園調布とは

田園調布とは言わずと知れた日本の高級住宅街で、いまでも著名人が多く居住しています。自然とできあがった住宅街ではなく、田園都市株式会社という今で言うデベロッパーが、これまた今話題の渋沢栄一らを発起人とし、海外の住宅街を真似て作られた街です。

田園調布駅

田園都市株式会社は鉄道敷設も予定していましたが、色々あって五島慶太を筆頭とした鉄道会社が旧目蒲線を開通させています。詳しくはググってください。
そのなかで街の入口として設けられたのが田園調布駅で、駅舎は開業当初から目蒲線のなかでは特異な意匠を施した駅舎が設置されました。現在は当時の駅舎が軽量鉄骨により復元されています。

かつての駅舎はこんな感じで、建物左側の樹木に隠れている細長い構造物以外はよく再現されています。何かの息抜きか、ダクトの類いと思われます。バス乗り場は当然ターミナルがなく、駅舎の左側にバス停と上屋が見えます。

現在の駅舎はオブジェ的な物で、2階は会議室として利用されてるそうですが一般への貸し出しは行う予定はないようです。2000年2月に完成を記念して一般開放されました。一番上の天窓は明かり取りのようです。

当時の航空写真などが飾られていました。

駅舎2階から見た風景。田園調布は高い建物が建てられないので見晴らしは良いです。

バルコニー部分です。上ることは出来ないです。

この頃は駅の商業施設はまだ工事中でした。

田園調布は坂の街でもあります。隣接するバスターミナルにも高低差があります。

駅構内には改札内からでも購入できる醍醐寿司という店舗が、開業当時から入店しています。個人店が駅構内に店舗を構えるのは当時の東急としてはかなり珍しいことでした。鎌倉駅の加藤売店に似ている感じです。

醍醐寿司本店はバス停の真ん前に構えており、利権に絡む大人の事情があったと思われます。

街並み

田園調布の街は放射状に広がる道路と、半円を描く接続道路で構成されています。放射状に広がる道路には銀杏が植えられていて、この時期はとても緑がきれいな景色になります。

放射状の道路を接続する半円の道路です。奥が見えなくなりプライバシーが守りやすくなったり、自動車の速度が出しにくくなると言うのがメッシュ式の区画整理と違うところです。この隣の道路に鳩山元首相の自宅なんかもあります。

そして、坂の街でもあるためアーティスティックなシーナリーが展開します。この場所はドラマなどでも登場する場所です。谷底の道路には、長い間沼部方面へ供給する水道管の本管が敷設されていました。右側に見える家のガレージ内にはスゴイオブジェがあります。15年以上前からあり、通るたびに気になっています。

多摩川の斜面へ向かってはこんな坂も存在します。

オッサレーな家が多いです。

この付近は自動車の乗り入れは居住者に限られています。とは言え、検問所などがあるわけではないので実質は進入しても取り締まる手立てはない感じです。

ジオコレで数寄屋造りの住宅とかでるとおもしろいです。この家の裏手辺りが長嶋元監督の自宅になります。

住むには一生縁の無い場所ですが、街並みはすばらしいです。個人宅を撮るのもアレですが、模型の参考にしたいです。