先日の名古屋でタキ7750やタキ5450をタップリ見たので、JAMで
も河合商会のブースで直販品やら、バラ売り店で貨車買っちゃったり
してます。
タキ5450がトミックスからしか出ていなかった頃は、特に興味も無か
ったのですが、やっぱり実物みると欲しくなります。百聞は一見に如
かず・・・かな?
タキ7750も今まで全く興味なかったのですが、以下同文・・・
ヘッポコ鉄道の設定は関東なので、この車種が以前関東まで遠征し
ていたかどうかは分からずですが、黄色のタキなんてしょっちゅう見
かけていたからOKと勝手に解釈です(^^;
無難なところで、NRSとか日石輸送も購入しちゃいました。
リトルジャパンに予約したのも含めると、相当な化成品ヤードを作らな
ければならないです。
で、名古屋臨海の東港で見かけた秩父のタキ1900は廃車待ちの状
態です。横の重機で「エィ、ヤァー」っとやられるのでしょうか。
▲こういうモジュールは作りたくないです(^^;
小物こまごま・・・
吉沢駅はとりあえず、緑化も終了し見られるレベルに・・・なったハズ。
気が付くと細かいモノが次から次へと気になりまして、なかなか進ま
ないです。日差しが出るまで待ってましたが、台風接近のためか曇り
がちで、日が出たと思い調整しているとまた直ぐ曇るので、曇天下で
撮影です。
▲ちょっと衣装が古めのフィギアを置いたりまだ作業があります
吉沢駅・・・いまさらですが・・・
吉沢駅は大正13年3月に砧線の開業と共に設けられた駅です。この
先にある大蔵駅隣接の砂利採取場から砂利を運ぶ列車のため、ここ
吉沢駅には交換設備が設けられていました。
昭和9年に多摩川の砂利採取が禁止になり、その後砂利の輸送量が
減ったこともあり、都市計画道路府県道第73号線(現在の多摩堤通り)
の建設に併せ昭和17年交換設備を撤去しました。その跡地の関係で
敷地が広がっています。
その多摩堤通りが駅前の中耕地3号踏切道になります。こちらの踏切
は戦時中ゴタゴタの中踏切の改廃が行われ、中耕地2号踏切道を名乗
ってましたが、昭和29年2月に中耕地駅から吉沢駅間の踏切を再度
整理し直しその後、中耕地4号踏切道に改称されています。
それまで単なる盛り土による「停留場」であった吉沢駅は、沿線人口の
増加に伴い昭和32年に上家を新設しました。そして昭和44年砧線の
廃止と共に駅も廃止になりました。
駅は二子玉川園駅起点1k143m、東京都世田谷区大蔵町79番地
の2号に存在してました。
▲砧線は一度乗ってみたかったです
上家の中に駅名看板があります。こちらもパソコンで製作中です。
吉沢駅緑化中
現代社会において都市開発等によりビルを建てる時は、行政指導で
「公開空地」なるモノを併設しないと開発できにくいシステムになって
ます。その空地のうち30%以上を緑化させたり・・・この辺の話は1冊
の本が書けてしまいます。
ちなみに「空地」は「くうち」と読みます。「こうかいくうち」です。
さて、製作中の吉沢駅時代設定は1960年代前半で、北京ならぬ東
京オリンピック前夜の設定です。当時の世田谷区の外れは、緑化面
積などの言葉は何の意味もなく、殆どが緑地の森か畑です。
土の部分は全体的に、ウッドランドの「アースコート」を塗ったあとにブ
ラウンミックスの「コースターフ」をふりかけてありました。
土の部分はそのままの予定ですが、緑地帯は更にベースとして、グリ
ーンの「コースターフ」をふりかけました。このあと、フォーリッジとミニ
ネイチャーで草むらを表現して行きます。
奥の家の周りにはブッシュ社の生け垣をグルリと巻いてあります。
▲踏切は注意柵などの細かい塗装が続いてます
上家には津川の「街灯」を改造した削ぎ取った外灯を設置しましたが、
やはりオーバースケールでした・・・
で、実は地方の車両も似合ったりするのでは?っと、先日zuppeさんや
ポレポレさん、つかささんに言われて気が付くヘッポコ工場長でした。
▲悪くはないです!